漢山は1983年4月2日、15番目に国立公?で指定された。

この公?は世界10大、人口密集都市である?ウルの北に位置する北漢山と道峰山の面積80km坪が国立公?である。 北漢山は南西部、道峰山は北東部に位置して、巨大な花崗岩からなる多くの山峰と渓谷が季節ことにその美しいさを誇っている。
この公?はその位置的特性から年間500万名以上の人々が訪れ、これは単位面積当り、最もおおくの探訪客が訪れる国立公? としてキネスブックに記?されてある。

北漢山は'大山''高い山'、漢山、華山、あるいは負兒岳、そして今も普く通用されている三角山など いろいろな名前で呼ばれる。
白??(836.5m)、仁壽峰(810.5m)、萬景?(799.5m)など三つの峰が三角の模樣に立ってあるとして 三角山だと呼びたが 朝鮮肅?時代に北漢山城を築城した後からと推定される。

太山峻嶺ではないが?な切り岸と岩峰と険しい山勢、そしてその間に流れる溪谷の?秘な美しさといっしょになる北漢山国立公?は古生代から花崗岩の地盤が上昇されて浸食になって節理と?面が長年のうちに風化されてから様々な岩壁と岩稜などを成している。

北漢山及び道峰山は天惠の岩壁登攀対象地で前から韓国の山岳?動の搖りかごになって来ているし、今にもアルピニストの情熱と 希?を持たせる場所である。?ウルの?山に称した北漢山近所には昔から我の歴史の中での人たちと共に多くの挫挫と 哀歡を共にして来て、いたる所に多い文化遺跡と古寺など跡と息遣いを畳み込んでいる。

そのうえ新羅時代の興王が国の内を巡行して領土の境界を決めてその史跡を書かれた振興王巡狩碑も北漢山に立ててある。
北漢山国立公?の近所は動物が生息するにいい環境だから、両生類を始めとして蟲類、鳥類、哺乳類などが全体地域に普く 分布されている。
また?やかな気候だから四季節にかけて様々な植物分布を成して、くねぎ、かえで、つづじ、うちわのき、群落など?麗な花が春から秋まで見られる。

北漢山城
北漢山に山城を築くの仕事はその奥の山国と外の下界を区分された北漢山の歴史の大?換?になった。
朝鮮時代初期に築城?は全然挙?なかったが高麗顯?時代は中興山城近所に蒙古軍と激戰が起こした時があったし、 高麗高?時代には蒙古の侵入を避けてこの山城の奧に高麗太祖の梓?を移して建てた。

北漢山城の戦略的価値は三国時代から認定されたのに、朝鮮時代に壬辰?亂と丙子胡亂の大国難を経てた後、?格的に築城された。壬辰亂の終わる頃、宣祖は在位の29年である1596年に?の再侵に備えた北漢山城の築城を計画したが?件がよくないので無駄になって、孝?によって築城内が再び提起されて肅?37年(1711年)4月3日に築城工役が始めて6カ月ぶりに出来上がった。

北漢山城のまわりは約9.7km、この中で城体だけの総延長は8.4kmに至って城壁のいたる所に外部へ繋がる門が設置されてある。
北漢山城の城門は北門を始めとして14個門があるし、この中で大西門、大東門、大成門、大南門は門樓が腹元された。

主要峰は白?台、仁壽峰、万景台、露積峰、?暁峰、霊峰、碑峰、文殊峰、羅漢峰、甑炊峰、竜出峰、?相峰、普賢峰、兄第峰などだ

 

文化遺跡(寺刹)??

ト?ン寺
牛耳洞から山道を30分くらい歩いて登ると三角山の大きな峰が見えて、その峰を背を向けってある古寺がト?ン寺だ。
大韓佛ヘ曹溪?に属したト?ン寺は1,100?年前、新羅末期の道僧であるト?ン国師によって創建されたが、佛?と 天文地理の?奧した 理屈を通達したト?ン国師が名勝 要地を踏査しているうち三角山に至って山勢が絶交し、 ?水したここに寺を建立したという。
また松林の切り岸果てにたてあるト?ン寺大雄殿の裏の庭にはわが国では珍しい??イジュ一木があって見手をもっと肅然とする。

華溪寺
ス?ユ洞、三角山の幹に位している華溪寺は朝鮮時代の中?17年(1522)に新月?師によって創建されて、その後大?君の ?主で重修された。
規模は大きくないが松、もみ、けやきが圍まれてあるここは訪ねる者の気を落にしてくれる。
華溪寺は朝鮮王朝時代に国太民安を祈った王族らの立ち入りが多くて'?殿’と呼ぶほど。また谷にある五鐸川薬水で大?君が皮膚病を直すためにこの寺に泊まったので大?君の字を始めとして彼との縁が たくさんある。

僧伽寺
飛峰の東の1kmところに位する新羅の古寺'僧伽寺'は秀?御坊が唐国の西域の僧伽大師を崇仰行う限りここに地を取って
洞窟の奥に大師の石像を刻まれて奉安したから名付けたのだ。寺の後側の石室?の小さい洞窟の奥に等身大の石佛座像があるし、 高麗の13代宣?との15代肅?が御出座したこともある由緒?くの伽藍だ。

津ェ寺
西大門外の獨立門から10kmところに三角山溪谷に位する津ェ寺は新羅時代の古寺であるし、同時に900?年前 高麗顯?(1009-1031)時代に重創されたがその後難の時に燃えられて、改めて重修を重ねてしながら今は大雄殿と 佛?二つか三つかのみ残っていない。
しかし大雄殿の内には、昔高麗顯?の命を求めてくれた?尊佛像が奉安されていってこの伽藍の名前を高めてる。

 

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