カヤ山は1972年10月3日9番目に国立公園で指定された

 この公園は面積80K坪の小規模であるが、カヤ山の美しい風景と文化財の重要性から1972年に指定された。
カヤ山は風水論で水、火、風という三種類の自然災害がなく、戦争の被害を受けない名山として評価されている。 公園の中心にある海印寺は仏教寺院としての名声だけでなく、貴重な文化財を法存しているのでも有名である。 韓国の国立公園のうち都市から遠く離れた公園の一つで、自然風景や生態系も良く保存されている。年間の探訪客は焼く00万人で、仏教信徒が多く訪れる。

昔からカヤ山は法宝宗刹のが位置した山として天下に優れた知コを備えた山だった。風音、水音、山音、木鐸音とどれも 捨てられない奇麗な音で訪れる人の心を蕩かさせる。
牛頭山という呼ばれる山が"カヤ"という名前になったところは法宝宗刹として韓国の3大寺と海印寺と密接な与り知ると 仏ヘ学者らは言う。
 

本来’カヤ’は牛を称する法語として、インドのカヤ山が仏陀が'カヤ山情景'を説法した跡地だから海印寺のような大きな 伽藍を懷に抱える山の名付けたと当たり前なのだ。
カヤ山は小白山脈の一つの支脈だ。海拔の1.430mとして他の高い山に比べると中岳にすぎないが山の自体の格調と品位で 見ればむかしからよく県板に書いた'海東第一の名山'として遺憾がない。
古記に'山形'は天下に絶勝たし、地コは海東に第一なのだ。カヤ山は五臺山、小白山とともに倭敵の戰火をされない所で 三災(火災、水災、風災)をされない所といった。それほどここは深い所に位している。 

 

紅流洞 溪谷
海印寺入り口を成している溪谷で海印寺と共にカヤ山の白眉で言われる。周りは松だけじゃなく闊葉樹もそれぞれ地域を 成して紅葉時季には表現が難しいほどに綺麗な景色が溪谷水に映されて溪谷水がまるで赤く燃えって上がるようだ。
それで'紅流洞溪谷'だと呼ばれる。この溪谷は唐国から歸国して、新羅のために骨折りて紊乱した国政を痛嘆し、 ここに入って隱遁修道しながら詩と共に余生を終えた孤雲崔致遠の息遣いが感じられるところだ。
溪谷の道端の隣の石碧には孤雲の詩一節が今も刻まれてあるし、人たちは「致遠臺」あるいは[題時石]だと呼んであるし、 孤雲の時心を紛らかして碁を打ったという篭山亭がある。 

南山第一峰
南山第一峰は、紅流洞溪谷の間にあってカヤ山と向き合っている山へ、稜線上に奇妙な形象の岩が並び立てある。 岩が繋がった稜線がこまやかで登山コ­スとして人気が高い。岩区間には鉄橋が設置されて急峻な山勢に比べて事故の 危險もあまりない。南山第一峰山行はC凉寺と海印寺觀光ホテルを起点から始まる。
篭山亭起点、孤雲岩起点コ­スもあるが非指定登山路し、景觀もC凉寺と海印寺觀光ホテル起点コ­スに比べて あまりよくないので尋ね人が少ない。

   

 

文化遺跡(寺) 

海印寺
慶南カヤ山にある大韓仏ヘ曹溪宗12ヘ区本社だ。この寺は国宝32号の経板殿を始めとして15点の宝物と200余点の 寺宝等數多い文化財と古籍を畳み込んであるし1995年12月9日ユネスコから世界文化遺産に指定された。
華嚴経の中に'海印三昧'を引いて名つけた法宝宗刹海印寺は佛宝宗刹通度寺僧宝宗刹松廣寺とともにわが国三宝宗刹の 一つとして新羅哀莊王3年(802)に順應と利貞と二人の御坊のよって創建された。海印寺の主要遺物では一柱門、九光樓、 大寂光殿、四雲堂などの遺書深い堂宇が多くて海東巨刹に遜色が無いことを誇っている。

 高麗大藏經と海印寺
海印寺を法宝宗刹で呼ぶのは、高麗大藏経すなわち大藏経とも言われる上法宝を仕えているためである。
高麗大藏経を一般的に「八万大藏経」たと呼ばれるのは、大藏経の藏経の版数が八万余枚にも上ることからであろうが、一方では、仏様で非常に多いことを指す際に八万四千という数字を使う用例通り、数え切れないほど多い仏様の数えを八万四千の 法門と呼ぶことから由来したと考えられる。

大藏経は、高麗時代に二回目にわたって国家事業として刊行された。最初に刊行された旧版大藏経は、1011年に 仏様の威信力を通じて契丹の侵攻を退けようにして発願から始め、1087年まで何と77年間にわたって行われたもので、 当時としては中国の藏経に比べてその内容が最も完璧なものであった、しかし、八空山の符仁寺に奉安された。 この旧版大藏経は、1232年に再び本格的な大藏経発行の仏事を推進し、1251年完成するにいたる。
16年に及ぶこの大きな仏事の結果が、現在海印寺に保管されている高麗大藏経である。

完成した高麗大藏経は、最初は江華島に納められたが、倭寇の侵略が激しくなると、ソウルの支天寺に移り、 さらに1398年 (朝鮮時代の太祖7年)には再び海印寺に移された。
大藏経を作る頃の高麗王朝は、数回にわたる外勢の侵入のために、混乱に陥っていた。そうした時代的な状況の中で、 王・貴族・百性が国家を救おうとする意図から作ったのが、まさに八万大藏経である。最近、ある歴史学者たちは、 刀と槍を持って外勢に向かって闘わず、代わりに大藏経を作るのに力を注いだ当時の念願を無気力な時代思潮として 評価することもある。

しかし、大藏経の刊径事業は、歴史の流れを直し続けようとする民族の念願がどれほど懇切で
強かったことを表す民族意識の総和であった。のみならず、ひいては世界精神史の山脈の中で聳えた山の頂であり、なお世界の印刷驟術と出版術に及ぼした影響も 大きく その結果、1995年12月9日、八万大藏経ネスコ(unesco)から世界文化遺産第463号として指定された。

 大藏經板殿
国宝第52号藏経板を保存する殿閣として朝鮮祖第の9代成宗時代に8年間にわたって蓮谷。學祖御坊によって創建されたが海印寺がその間7番目の大火をされたが、ただ藏経閣のみは災殃を一度も合わなかったし、いわゆる 三災不入處の聖域で言われてあるし、前後で首陀羅殿と法寶殿がある。7百數十年が経った今日まで損傷されなくで 退落になった所もなく完全無欠に保存されたある大藏経版を見ればこの建物がいかほど優秀なのかを考えられる。

九光楼(宝藏殿
九光楼は、海印寺のすべての建物の真中に位置してある。九光楼という名前は、華厳経の内容から引いたものであるが、 華厳経には仏様が九ヶ所で説法しながら、その都度、説法の前に白毫で光明を投げかけたという話がある。
昔は、爐殿を始めて和尚のみが法堂に出入することができた。したかって、この楼閣は法堂に入れない一般大衆が 集まって 礼仏し、法堂を開く場所として建てられた。現在は海印寺の寺中宝物を保官する宝物保官場として使われているが、 貴重な仏教文化財を大切に保官させる博物館が必要である。

 大寂光殿
一つの寺院の法堂には、仏像と菩薩像が供えらているが法堂の名前はその中にある主仏によって決められる。
いうまでもなく、正にその主仏は正寺院の精神的な支柱である。海印寺は華厳経を中心思想として創建されたもので、 ほとんどの寺によく備えている。したがって、法堂の名前も大雄殿ではなく、大寂光殿である。

 「ビロザナ」は、サンスクリット語であるvairocanaより由来したもので、永遠な法、すなわち真理を象徴する。
したがって毘
?蔗那仏を仕える大寂光殿は、仏様の真理の体が華厳経をいつも広く説する大寂光土の役割を果たしている。

 現在の建物は、創建主である順応和尚と理貞和尚が802年に建てた場所で再び1818年に再建したものであり、 法堂の なかには七仏像が供えられている。法堂に入ると、左から鉄造の観音菩薩、木造の文殊菩薩、木造のビロザナ仏があり、 真中には本尊ビロザナ仏像、そしてその隣には木造の地蔵菩薩、木造法賢菩薩、鉄造の法起菩薩がそれぞれ安置されている。

 白蓮庵
白蓮庵は、山中の庵の中で一番高いところに位置してあり、静かで景色の良い場所である。とりわけ、庵の周辺には 生い茂っている老松と幻寂台・絶相台・龍角台神仙台のような奇厳が屏風のように取り囲んであり、 白蓮庵は昔からカヤ山一の絶勝地と呼ばれる。

白蓮庵の最初の創建年代は不明であるが、ただ1605年(宣祖38年)に西山大師の門下であった昭庵和尚が 重建したという記録のみ残されている。昔から高僧たちがよく修行処として使った 白蓮庵は、昭庵大師を始めとして幻寂・楓渓・性峰・仁 <坂>大師のような和尚が駐錫し、最近までも曹渓宗正であった性徹大和尚が駐錫していた。

現在、白蓮庵には円通殿と影子堂を始めとする寮舎が立てられており、新たに築台を築いて祈処を新築するなど道場が一新された。

清涼寺
清涼寺は、その創建年代が確かではないが、新羅末の学者である弧雲が清涼寺で遊んだと言う記録が「三国史記」に 残されていることを考えみると、新羅時代で創建されたことがわかる。しかし一時的弊寺となったものを1811年に 晦隠和尚が重修し、最近には景庵和尚が再び重建したが、現在はさらに大きな仏寺を新たに重建している。

新羅時代の古刹である清涼寺は、多くの宝物を保存しているが、その中でも統一新羅時代の様式として見られる。 如来坐像と国宝第266号で指定された三層石塔、そして宝物第253号で指定された石塔などは千年古刹の香気が感じられる。

磨崖石仏
宝物第222号で指定された海印寺の磨崖石仏は、カヤ山の中腹に位置している。よい行舟形であるといわれる
海印寺の地形の中で、この中腹の石仏は、船槽として注視されたが、高さ9mぐらいの岩に、6。5mの仏身が刻まれて、 その円満な姿をあらわしている。統一新羅時代の作品として推定された。

 

 

 

 

   
 
 
 
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