智異山国立公園は1967年に韓国で最初に国立公園で指定された。

陸地にある公園中最大の面積(440?)の公園である。
この公園は韓半島の背中である白頭大幹(大山脈)の南端に位置する韓国最大の山である智異山一帯を 指定したものである。
智異山は最高峰である高さ1.915mの
天王峰(チョンワンボン)をはじめとする多くの山峰と深くて長い渓谷等が多く、 その姿が多様でこの山を見れば韓国山河のすべてを見たことになると言われている。

この公園は韓国で最も多様な生態系と多くの文化財がある。そして山麓には肥沃な農地が多く、多くの人々山と共に生活しており、 周辺には韓国で一番清流として知られている蟾津江(ソムヂンガン)も流れている。智異山は漢拏山についで二番目で高い山として天王峰、老故壇へ続く1百里稜線に主稜線だけも般若峰、ウサギ峰など 峻峰が10余個もあるし、85個の大きく小さな峰がある。

智異山の10景としては老故雲海。ピアゴル紅葉。般若落潮、碧宵嶺明月、細石つつじ、佛日滝、烟霞仙境、天王日出、七仙溪谷、 蟾津C流が秘景を成す。天王日出は3代がコを積めば見られるほどで有名な所だ。
智異山は四季節 山行地で春になると細石及びバレ峰のつつじ、花開市場から雙溪お寺までトンネルを成した桜、夏には爽やかな新録、 滝、溪谷、秋には溪谷が3kmに至る紅葉と万福台の登山道の葦、冬の雪景色など季節ごとに美しい風光を自慢する。

智異山は母懐奧こじんまりして安らぎを抱かせる山として多い人たちのゆききがとだえない山だ。
智異山縦走は100余里が越えるコースとして縦走を終わった後に胸いっぱい滿たされる山だ。

 智異山はどうして智異山だと呼ぶのか。

智異山を字をそのまま解いて見れば'知恵がある異人が大勢な山'という。しかし智異山はその広いほどに名前も多い。
智異山の最も古い名前は雙溪お寺の鎭鑑禪師の大功塔碑(国宝47号)の新羅時の崔治原さんが書いた碑文に出るチイ山で、 白頭山の脈が流れ来たとして'頭流山'三神山の一つである'方丈山'、または現在の音だけ同じようなチリサンなどで呼ばれた。

また仏家では文殊寶薩の道場として文殊師利で由来した'地利山'そして李成係が祈りささげる時、智異山のみで燒紙が燃えらなくて'不服山'だとよばれた。
この頃に使われる名前は漢字の音ではチイ山なのに'チリ山に読む。その訳は'普く広くて大きい'という純粋な韓国の言葉の意味だ。後に仏教の影響を受けて現在の''智異山'で固まったとする。このためにチリ山で呼ぶのに'智異山'だと書くようになった。

主稜線縱走路

華嚴お寺-老故檀-般若峰-ウサギ峰-烟霞泉-碧宵嶺-細石山壯-ジャントモク山壯-天王峰-中峰-サーリ峰-チバクモク山壯-大原お寺)

智異山 山行の最も代表的な主稜線縦走は智異山全体に眺めながら山行ができるので人気がある。求礼で姓三嶺を過ぎて達宮まで 道路が非鋪道になる前には稜線縦走の起点が華嚴お寺に経ったが、今は車を利用して姓三嶺まで登った後、山行するのが一般的だ。

体力と時間消耗を減られる所である。 姓三嶺で老故檀待避所までも非鋪道たから難なく登る。老故檀頂上部は自然休憩年制の区間で現在生態系復元作業が進行中だ。老故檀の東へ老故檀と続いた稜線に登ると本格的な智異山主稜線縦走が始まる。

老故檀待避所から豚坪田、林傑嶺を過ぎてノルモクまで約2時間30分距離。
ここで北の方へ智異10景の中で一つである般若落照を感想することができる般若峰に登る登山道が出てある。

全南と全北、慶南が会う地点として頂上に化合の塔を立てた三道峰で北東方の稜線を付き添えば花開嶺が出る。むかしは稜線北の方のベムサゴル人たちが花開市場に行くために越える峠だ。峠の上で北の方へ200m下にベムサコル待避所が位している。

花開から明鮮峰の北の方に烟霞泉待避所まではウサギ峰とチョンカク泉のあたりだけ除けばあまり急な所がない。雅談な大きさの烟霞泉待避所はいつも爽やかな水が湧き出る。泉がつい先にあって水を飲みながら休んで行く。
收用人員が50余人の規模が小さくて盛需期には早く着かなければ眠り座を求めるのが難しい待避所だ。

智異山の稜線は他の山に比べて泉と待避所が多くて縦走山行に便利なところが多い。林傑嶺とベムサゴル、チョンカクセム、烟霞泉待避所と泉が適当なおきに配置になったので喉が乾く時ほどならあいかわらず水を求められる所が現れる。

烟霞泉に登山道にそって1時間30分ぐらいに碧宵嶺待避所に着く。碧宵嶺でコ坪峰、七仙峰、迎新峰等三つの峰を越えると細石待避所が現れる。
24時間くらい掛かるこの区間は智異山稜線縱走全体区間に知れてある。段段と上がり下りしてずっと続いて高度を高めだからかなり大変な所だ。

細石坪田はつつじで有名な所だ。ここは単一待避所の規模では国内で最大だという細石待避所は水量が豊かな泉があって大勢な人が止まられる。細石から天王峰までは視界が爽やかに開けて稜線縱走する感じられる区間なのだ。

峰を登ることに手に掴まられるように近くの天王峰の樣子に安堵の息を付くが、実は続くの高度上昇で易しくない。場基項を過ぎて急な稜線登れば枯死木で有名な帝釋峰に着く。

こちらからわずかの30分くらいに行くと天王峰の頂上だ。最後関門は頂上つい下に通天門。今は鉄階段が設置なって安全に上がたりさがりたりことがある。一般的に老故檀から天王峰まで山行時間は1泊2日くらいがかかる

  智異山の10景

第1景  天王峰日の出
 

灰色光雲海はるかに東の方地平線の上に暑気が染みり始めて赤い光彩が長く広げれば原始の開闢を見るような気がする。
逆光に反射される銀色雲に峰だけKい線を描いて姿態を表わす、世の中は天然のカ­テンが明けなから智異山のファンタジが 始まる。

第2景  故雲海

海拔1.507mの老故檀はある山莊と異なり広闊な草原地帶だ。高原だが、水が多くて下端部は溪谷を成してあって、眼の下に 繰り広げている雲海を見れば俗世のすべての雜念も自然に消える。

 第3景  般若落照

夕方に盤若峰で眺める煌らかな黄金色入り日を見ていた詩人は[自然が作った一番莊嚴な宴]と褒めちぎた
西方へ 落ちる日差しが智異山の延峰に絹を覆われて夜を調えるようだった。

第4景  稷田丹楓

智異山の代表的溪谷の一つであるピアゴルは春のつづじ、夏の録蔭、秋の紅葉、冬の雪花が変化に展開されていい景色を成す。
その中でも10月頃の絶頂を成す紅葉は天下の一品で、山全体が紅葉に赤くになって山紅で、赤い紅葉が水に映されて水紅で、 その景色を眺める人もやはり赤く染まって人紅だとして昔から三紅の名勝地で呼ばれて来た。

第5景   碧宵明月 

[やみ夜、森の後ろの峰の上に滿月が浮かべばその極限の月影が天地に照らされる静けさは碧宵嶺でなければ見られない]だとある詩人は歌い上げた。深山幽谷の枯死木と密林谷で虚空に掛かった月を見上げればここが正しく仙境だろう

 第6景   細石つつじ


5月頃になると綺麗な桃色で匂やかな花畑を成して地上楽園が広げる。5月中旬から6月中旬まで樹高1.5m-2mのつつじが満開されて高い山のCい空気の中で眩しいし、派手な光を発する。
録陰の中に桃色は実に幻想的だ。

第7景  佛日縣滝

金崗山に劣らない鶴洞と白鶴峰の間に険しい谷の奥に深い切り岸滝で五色虹が掛かって白玉らしい水玉が曇る。  60mの高いところか落ちられる爽快な瀧音と身中で染み込みは身と心が凍りつく緊張感じを催す。

第8景  烟霞仙境

古色蒼然に苔がはめた奇岩怪石の間に香り高い花が季節ごとに咲いて、自然枯死木地帶が繰り広げてある下では数百年が経った のに いを誇っている原生林がいっぱいだ

 第9景  七仙溪谷   

天王峰に根を置いた急流が切り岸を突き破って深い溪谷を成したわが国の3大溪谷の中で一つである七仙洞から溪谷へ登る ことに仙境の壯觀を成している。 

第10景  蟾津C流

山が高ければ水もCい。智異山を南西へくねくねと流れて南海に至る蟾津江はその水がCくてい一幅のい絹を繰り広げて 置いたようで 、江両側に繰り広げられた白い砂浜も白い絹布を敷いて置いたように美しい。急流を乗って上がり下りして鮎 群れを 釣る漁夫の姿も美しい。

 


 バレ峰


智異山最高のつつじ畑 智異山国立公園の北西方には智異山最高のつつじ畑のバレ峰がある。
細石高原がバレ峰へ名声を渡したのはずっと前からたっだ。雲峰面には大抵'雲峰種畜場'だと呼ばれる農村進興廳畜舍技術 研究所の 南原支所があり、 この牧場裏山がバレ峰だ。 

智異山主稜線から万福台の北東方にチョンリョンチ、コリ峰、セコル山へ続いた稜線がちょうど尾を降りだ地点で湧いた峰だ。 つつじがたけ咲いたので季節には遠い所からも尾根の赤い光が見える。

バレ峰のつつじ畑は羊の群れによって手入れられた。71年からひつじを育ているバレ峰の稜線まで自動車道路を出して 草地造成 された後、 垣根を掛けて羊の群れを解き放した。その時、羊の群れは樹木が新芽をだす始めやいなや食べてかた づけて他の 樹木は全て乾く死んだが、 毒性があるつつじだけは觸わらなかった。これでつつじだけ生い茂るになった。

バレ峰に上がる道路は易しいほう。バレ峰の頂上の近所まで登って行ってから下りるが3-4時間ほどで十分だ。
種畜場のわきに入って種畜枚の建物の後ろに曲がると山裾へ向かって伸ばている羊の輸送道に使われた非鋪道にそって稜線 まで行って登ればよい。
雲峰面にはつつじが滿開するとバレ峰のつつじお祭りを開く。南原で雲峰種畜枚のつい先に停車する市内バスが一日20回運行される。約30分所要。


山茱萸村サンウイ
全国で一番目に広くの群落地

万福台の 山行起点であるウイサン里サンウイ村をはじめにその下に大坪里坪村、タイオン、新坪などの村は全国で指を折リ ような山茱萸の並み木に花が咲くと谷が黄色で覆われる。
山茱萸は水木科に付いた落葉喬木で背が7-10mまで育つ。3月頃葉より花が先に咲いて、8月頃から長くて丸い実がなる。

この実は樂材とかお茶の材料で使われる。桜とは違って山茱萸が大きく群落を成したのは珍しいところだ。山東面内に34個村の1.038号で総28.000本ほどの山茱萸が育てているが、恐らく全体的で一番大きく山茱萸群落を成した所たと思う。

智異山特有の岩塊らが絶景を成した妙峰谷の村中を過ぎて行って最も見事な山茱萸花の風光を見える。いちばん古い山茱萸の 樹齢は約500年。現在号当坪均は約100本ずつ持ってあるからサンウイ村全体山茱萸の本は2.500柱にされる。その中で半ばは 植えて10年ほどになった幼い木で残りの半ばは樹齢を推定するのが難しいほど古くになったこともある。

1960年代から日本と香港などで染料と樂材の原料に大量で売れ始めて山茱萸実の値段も上がって今は主所得原になった。遠く 智異山の 万福台に雪花が白く咲きはじめる頃になるとサンウイ村の山茱萸実はいっそう赤らむ

 

 

智異山のお寺

華嚴寺  
智異山の最大のお寺

華嚴寺は智異山に散在された多くのお寺の中で規模が一番大きたし、多くの宝物を持っているお寺。一柱門を通れば金剛門、 天王門、 宝済楼まで続くの 道にそって歩くと千年古刹の香りにぐっしょりと濡れられる。
華嚴寺は8世紀中葉統一新羅慶コ王の時に華嚴学僧侶の縁起祖師が創建したお寺だということが明らかになった
という 記録が出て有名になっだ。

華嚴寺には大きな伽藍らしく覺皇殿、石灯、4獅子5階石塔など国宝3点と宝物5点、天然記念物1点、地方文化財2点、お寺の 文化財29点が保存されてある。国宝第67号である覺皇殿は元は釋迦如来の燈神佛ほどような黄金仏入象を仕えたとして 丈六殿 だと呼ばれた。
この木造建物は丁酉乱の時、焼失されたことを淑宗25年(1699年) 桂波禅師が重興仏佛師を起こして覺皇殿に改めて 呼ぶようになった。 覺皇殿はヨースの鎭南館チュンムの洗兵館と共に我国の3大木造建物で選ばれる。

壁松寺書庵
窟法堂の中に真理を刻んで置いての新しい名所

窟の奧に法堂を作り出て窟法堂 華嚴経の真理を形象化した巧緻な彫刻が見る人に感嘆を呼び起こす。
すでにこの窟法堂は全国的に有名になった。
書庵窟法堂は壁松寺住持を務めた元應御坊が元力を出して13年前から造成された。御坊は
華嚴経の82卷の金字筆者を 始めに傍ら全国で有名な石工たちを呼ばらて華嚴経の逸話を形象化した絵を彫刻させられた。

しかし石工たちは大多数が中途に放棄したがその中で洪コ喜さんだけが殘って作業を仕上げた。右の壁面から目蓮尊者、 舍利仏尊者、 南巡童子、觀音菩薩、道明尊者、地藏菩薩、そして下坪等門中には仏樣の10とていしと神将?たち、真ん中の 柱には50羅漢の樣子を巧緻に彫った。

窟法堂以外に入り口の四天王像、北の方の絶壁ビル殿に彫ったビル蔗那仏像もみんな感嘆らしい。特に心血をそそいだことが 何ですかと聞くと洪さんはためらわず地藏菩薩だと答えた。秋城洞にいけば一度立ち寄って見るように勸める。


實相寺
国宝、宝物級文化財が多くの新羅護国古刹

新羅興コ王3年(828年)洪陟祖師が創建した後、善宗傳播に大きな役割を行なってきたお寺として風水地理説によってここに お寺を立てられなければ韓国の精気が日本へ渡るそうで建立したそう。
あるお寺は山ふもととか山の上にあることとは違う、広い田畑の中であるというところが特異な感じられる お寺だ 。

洪陟以後3代祖の片雲禅師に至って大きく重建させるなど、實相散播の根本導量を遂げた實相寺は丁酉乱の時ほとんど廃虚されたことを淑宗7年(1681年)碧巖大師が修造した、以後高宗19年(1882年)火事で被害を当たられたが2年後である 1884年 月松などが再建されていままで続いて来るお寺だ。

現存されている普光殿をはじめとして薬師殿、明浮殿、七聖閣、仙利修導園などがある。お寺の内には宝物11点と地方文化財 1点 、民俗資料1点など多くの文化財が保存されてある。
山行の三叉路で仁月方面の道端に山の中に位置する實相寺 百丈庵には新羅下代の美塔を代表する三階石塔(国宝第10号)がある。


天恩寺
阿彌陀後仏テンファは最高の傑作

天恩寺は求礼邑北の方の9km地点にある小さくてこぢんまりしたお寺で、姓三嶺に登る坂道の初入に位している。 お寺の記録によると、新羅興コ王3年(828年)コ雲禅師が立てたことでその名前を甘露寺だとしたが、その後朝鮮時代(1773年) に 戦乱で 燒失されて翌年華巖禅師が再建して天恩寺に改名して今日に至ったという。
天恩寺は当代の仏画の最高傑作で評価される極樂保全、阿彌陀後仏テンファ(宝物第924号)が所藏されてある。

太い麻布に彩色した絵で当代の仏画の最高傑作で評価されて、貴重な仏画研究資料になってある。
お寺の入り口に溪谷を横切って立ってある亭の水紅楼は流れ水といっしょになって一つの東洋画を連想させる所で休み々ながら散歩を樂しみに回って見るのがよい所だ。
一柱門に掛かった水が流れるような書体で書いた県板も天恩寺で拔かさない大事な ポイントだ。


七仏寺亞字房
オンドル石を 亞字型で置いた千禅房

お寺の地は明堂じゃない所がないが七仏寺はその中で最っともよい所に座を取ったという。臥牛形局で雌牛がたらふく食べて 横になった形像の明堂ということだ。それでこのお寺で出る泉は乳泉で、乳泉は韓半島でただ三つ所だけという。
西紀97年新羅のキムスロ王の10人の王子の中で7人が入山、6年後に成仏したという由来になった。七仏寺を称えて東国第一禅院という。これはこのお寺に亞字形象のクトルを置いた禅房の亞字の屋がいるからだ。

'クトル'というあだ名を持った雲供禅師が897年から13年間功を入れてこの部屋を作り、その構造が玄妙して一度火を燒べれば 温味が49日うちに続くになったとする。
この亞字禅房の規則はとても厳しくて默言を守って、座るとも横にならなく、一日一度ばかりの食事で泊まる。 こんなお掛けでこの部屋では多い学者が生まれて、ソサン、ブヒュウ、チョイ、ヨンソンドンの禅師のが部屋を経ったという。

特に湫月御坊の鷄足精進、つまり鷄のように踵を上がったままに參禅修行のが有名だ。チョイ禅師は茶書、東茶頌をここで書いたと伝われる。 七仏寺大雄殿木仏造成にもまた傳説のような話しが絡んである。
1981年から3年間27歳の若い木彫刻家が彫刻を引き受けたが、婚約も破棄して結局剃髮までしたという。

雙溪寺
崔治原の金石文が殘ってある。

河東郡花開面雲水里にある雙溪寺は曹溪宗第
13ヘ区の本社で統一新羅、成コ王23(723)義相の弟子である三法が創建した 古
三法は中国の唐国で。戻る時、六祖慧能の頭上を仕えて来て金堂の塔に奉安した後お寺の名前を玉泉寺という付ったが、 以後 文成王
2(840) 鎭鑑禪師が中国のお茶の種を植えて大伽藍を拡張して、正康王時雙溪寺で名前を替わった。

雙溪寺は壬辰倭藍の時燒失されたが朝鮮仁祖
10(1632)碧巖が中建して今に至る。重要文化財としては国宝第47号である
鎭鑑禪師大功塔碑と宝物第
380号である浮屠がある。大功塔碑の碑文は眞聖女王時崔治原が書いたもので韓国の4台金石文中で 一番目に選ぶ。

他に寂默堂
(宝物第458)、大雄殿(宝物500)5階石塔、七仏亞字房、磨崖如来像、一柱門、八相殿などの文化財がある。 不無長嶝、三神峰、山行の起点もなる。

大源寺
比丘尼精導良

油坪里溪谷を代表する智異山の深い溪谷に位置した靜かな山奥の比丘尼お寺だ。新羅眞興王
9(548)縁起祖師が創建した 当時の名前は坪源寺だったが壬辰倭乱の時全燒された。その後、朝鮮祖淑宗11(1685)に新しく建てて大源庵だとしたが 高宗27(1890)に保守工事後に大源寺になった。

6.25動乱の時に全燒されたものを中建したのに、山勢と位置が似合にこぢんまりな規模で建ててまったくぎごちなさを 感じられない。 比丘尼らのC情導良に靜かで物静かな経内が印象的。
境内には高さ
6.6m9階石塔(慶南有形文化財30)があって、新羅時代の花崗岩の石塔で朝鮮時代の再建を経て現在の樣子は 1972年に保守したことだ。

他に特別な文化財はないが、こざっぱりに整利されたジャントク台様子がある田舍家の裏庭に入ったような錯覺を呼び起こす。
都市生活で失った何かを探すのにここはC涼な衝撃的で近づくの風景だ。
大源寺溪谷ボックスオフィスを過ぎて
2.5kmくらい行けば左へ見える。

燕谷寺
ツバメが飛ぶ形勢の庭に位置

ツバメが飛ぶ形勢という明堂に落ちついた燕谷寺はピアゴルの入り口に位している新羅
古刹だ。
眞興王
5(544)縁起祖師が創建して、壬辰倭乱と6.25の時各々燒失なった燕谷寺 は1965年小規模の大雄殿と夭死敷きを 重建した 以後81年 新しい大雄殿を完工してお寺の面目を備えた。現在曹溪宗第19ヘ区の本社である華嚴寺の末お寺だ。

このお寺には東浮屠(国宝第53号)北浮屠(国宝第54)三階石塔(宝物第151)玄学禪師塔碑(宝物第152)東浮屠碑(宝物153) 西浮屠碑(宝物第154)等いろいろな文化財がある。
1967年統一新羅末期に立てられたことで推定される三階石塔を、解体保守する時下層基壇部で銅造如来立像1具が発見された。

 

   
 
 
 
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